山本七平 「空気の研究」  ポスト3.11のメディア報道の中で読む(1)

鴻上尚史「空気」と「世間」や、冷泉彰彦「上から目線」の時代 を先日ブログに書いた流れで、名著の誉れ高い 山本七平氏の「空気の研究」を読んだ。
そして、福島第一原発の国会事故調の最終報告書に目を通した後、もう一度読み直した。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

鴻上尚史 「空気」と「世間」  blog初心者の僕としては肝に銘じないと、、
http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120620/1340207465
冷泉彰彦 「上から目線」の時代  その次の時代のコミュニケーションを薄ぼんやりと考える
http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120701/1341161728
人災 MADE IN JAPAN  −国会事故調の報告書から見える ”悪い日本的なもの”
http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120707/1341651860

山本七平さんの「空気の研究」は多くの人が引用しているので、すっかり読んだ気になっていたことを深く恥じる。読んで、怖さを感じる深い感銘を受けた。今回、その怖さに感じ至る部分まで書くかはおいておいて、ポスト3.11の原発事故メディア報道の中で、読んで思ったことをメモしよう。

 

空気が生まれる必要条件1 ”対象の臨在感的な把握”

山本さんの「空気の研究」は、よく知られるように、日本人が 抗えない”空気” が醸成される理由を究明した本だ。太平洋戦争に突入する時、誰もがアメリカには勝てないと思っていながら、その場の空気に拘束され、よくわからないまま戦争を始めてしまった例が代表格である。

山本さんは、空気が発生する必要条件として、「対象の臨在感的な把握」 を挙げる。これはすべての民族が行う感情移入を前提としているが、日本人は感情移入を絶対化して、それを感情移入とは考えないで、逆に対象に支配されてしまう状態になると言う。
”臨在感”は、やや分かりにくい表現だが、鴻上さんは ”まさにその場にいる” 感じで、ものごとを捉えることとしている。

例えば、人骨に対する反応。日本人とユダヤ人の遺跡発掘プロジェクトで人骨がどかどか出てきて、ユダヤ人は人骨を物質として捉え平然としているのに、日本人研究者は人骨という対象を絶対化・物神化して、病気になってしまう。
例えば、遺影に対する反応。裁判などで被害者の遺影を見ると、それを絶対化してしまい、被害者の立場に同調する。
絶対化する対象は、人骨という物質や、遺影などのイメージ(像)に留まらず、スローガンなどの言葉も含まれる。一昔前は、「先進国に追いつき、追い越せ」という言葉を絶対化して、そのような空気に支配されてしまう。

■ポスト3.11メディア報道と「空気」の醸成
ポスト3.11のメディア報道は、この「対象の臨在感的な把握・絶対化」という点では、どうだったか?
第一に、強く反応してしまう死体という物質は、今回も報道されていない。僕は、死体を掲載しろという立場ではないが、対象(死体)に支配されてしまう日本人には、あまりにも臨在感が強すぎてダメという判断だろう。

第二に、事故が起きた当初の原発建屋のイメージ(写真)。これは海外の報道に比べて、相当遅れて報道された。特に、原発の爆発シーンなどは、当時ほとんどのマスメディアが報道しなかった。海外のCNNなどは、福島第一の3号機爆発の絵などは、繰り返し放送していたものだ。
惨たらしい破壊された原発の像・イメージは、やはり感情移入を絶対化する日本人にはつらいと判断されたのだろう。

第三に、事故後の例えば「がれき問題」。
僕は、昨年の10月、11月に石巻を中心に、南三陸町や松島を訪問した。震災から半年以上たったその当時、石巻市では、がれきは市内の中心地からは除去されていた。南三陸町では、町内の端にがれきが積みあがっていたが、道路などからは排除されていた。
ただ、メディア報道では、今でも「がれきが被災地のあちらこちらにほったらかしになっている」という印象を与える。昨夜のNHKスペシャル「がれき "2000万トン"の衝撃」でも、街中がれきだらけ、という印象を与えていた。
がれきみたいな対象は、メディアとしては絵的にもOKだし、どんどん出している。陸前高田の一本松のような「希望」の対象。さまざまな被災者の横顔のような「悲しみ」の対象。

がれきのメディア報道は、過剰なまでの臨在感的反応を呼び起こしている。 ある人々は、「被災地の街中がれきだらけ」に過剰反応し、他の自治体が積極的にがれきを受け入れるべきとする。他のある人々は、「放射線物質を浴びたがれき」に過剰反応し、がれきの受入を徹底的に拒否する。これは、単なる物質であるがれき(放射線量の測定をしてよい)に感情移入し、がれきという対象と自分が一緒くたになっている状態だ。
がれきメディア報道によって、大きく異なる2つの空気が醸成されているようだ。

最後に、最近の大飯原発再稼働反対のデモ。このイメージ(写真)には、思わずのけぞった。

再稼働反対派は、原発の非自然・人間に対する抑圧と、男根の自然・人間の基本である生命感の対比を象徴したいのだろうと思う。果たして、このデモに参加した人々は、これを見て盛り上がった空気が醸成されたのだろうか? これは後に少しふれる。

いずれにせよ、日本的な「空気」が醸成されるためには、「対象の臨在感的な把握」をする日本人が存在するし、メディア報道もそれを助長している。
ただ、これだけだと単なるアニミズムの世界だし、日本人って、そんな原始的なの、と思ってしまう。「空気」が生まれるためには、他にも必要条件があるのだろうか?

空気が生まれる必要条件2 ”日常性を支配する水のような情況論的な問題把握”

この本でも、サラリーマンの飲み会で”脱サラしよう”と盛り上がる空気が例として挙げられている。ただ、そのような時、誰かが「先立つ金がないよなあ」と水を差し、醸成された空気が崩壊する場面が描かれている。

ここで言う「水」とは水を差すという行為で空気を壊すのだが、それとは逆に、壊れやすい空気の絶対化・継続化を促すものと山本さんは捉えている。水とは、日本人の日常(通常性)を支える情況論理とする。

これには、若干の説明が必要だろう。山本さんは、「固定倫理(論理)」、「情況倫理(論理)」と、情況倫理から派生する「辻褄が合わない論理」を比較する。
簡単に言えば、固定論理とは、善悪などを固定・絶対的に考えること。情況論理とは、固定論理的に考えず、その場その場の情況に応じて善悪などを考えること。辻褄が合わない論理とは、情況論理を採用する日本人が陥りやすい非論理的な考えを指す。

この情況論理(日本人の通常性)を、ポスト3.11のメディア報道から見てみよう。
東北大震災後の被災地において、「窃盗や略奪」報道は、大々的には行われなかったし、例えばATMの強奪などは暗に外国人窃盗団の仕業と思わせる報道がなされていた。そして、海外からは「非常時においても略奪が起こらない日本」、「大変な状況におかれても礼儀正しい日本人」が賞賛された。

窃盗や略奪を「固定論理」から見れば、どんな情況だろうが絶対悪であり、許されるものではない。これは、欧米の基本的な論理だが、徐々に相対化されているという。ただ、ハリケーンカトリーナ」で大きな被害にあったニューオリンズの報道などでは、略奪行為を客観的に報道していた。これは、あくまでも客観的だが、固定論理的な報道だったと思う。
一方、日本には、このような固定論理は、極めて希薄であると。

窃盗や略奪を「情況論理」から見れば、どうなるか? 東北大震災後の激烈な情況下では、窃盗という行為だけを取り上げて、固定的な規範で律することはしない。震災や、特に原発事故など過酷な情況を創出したものこそ非難されるべきで、仮に窃盗をする者がいても一概に非難されるべきでないとする。

僕が石巻市を訪問した時、街中心の商店街は津波で破壊されている姿を見てきたが、宝石店や時計店などの極端な破壊は、津波の水とは違う人的な所業を思わせた。実際、街の人に話を聞いても、(相当話し込んで打ち解けた後だが、、)略奪があったという人は多かった。

このような略奪があったらメディアも本当のことを書けということを声高に言うつもりはない。今回のポスト3.11の被災地報道では、略奪のことは記事数も非常に少なく、触れている記事も、(略奪は悪いとはいえ)過酷な状況では致し方ないというニュアンスがあったし、「店の方が積極的に商品を配った」こととごちゃ混ぜにした報道が見られた。
この情況論理は、略奪も起こらない礼儀正しい日本人という臨在感的な把握の空気を継続させるポイントになろう。

欧米は、固定論理を基本としながら、それでは辛すぎるので情況論理を取込んで相対化していると。一方、日本には情況論理しかないと。

■日本にありがちな非合理的な論理
窃盗や略奪の「辻褄の合わない論理」とはどういうものか? 今回の東北震災報道で、ネットの一部ではあった議論、マスメディアでは、僕は見ていないがあったかもしれない。こんなロジックだ。
原発事故や震災後の苛烈な情況は事実である。 その情況下でも(日本人による)窃盗や略奪はなかった。窃盗があったというのは、悪質なデマや日本を貶めるデマゴギーである。逆に窃盗などを故意に言う者は、情況を創設した東電など悪い奴らを捨象する手先のようなものだ。だから窃盗などなかったし、そんなことを言う奴は炎上させるぞ!

この辻褄が合わない訳は、窃盗がはじめから無いならば、原発事故下の過酷な情況を云々する必要はないし、その情況を前提とする発言は、「窃盗はあった(かもしれない)と考える人間が多いだろう、しかし、、、無かった」という「前提の前提」という屋上屋を重ねることになることだ。

つまり、一つの状態(窃盗が起こるという状態)が現出したり、しなかったりすることに対して情況下の前提を設定し、逆に、日本人なら窃盗しないというような虚構を打ち立てる論理になるわけだ。

先に挙げた大飯原発反対デモでの男根イメージに、この辻褄が合わない論理を感じる。福島で起きた原発事故の過酷な情況に過剰反応し、大飯/関西でも起こるという空気を醸成する。その時に(事故を起こしていない)大飯原発を自然を破壊し、生命を脅かす存在と前提し、その前提に対抗するために男根像を打ち立てた訳だ。
逆に、原発自体を「エネルギーの創出源」として男根のイメージにかぶせるのは象徴的に分かりやすい。インドの原発建屋は、怒れる神シバァ神をモチーフにしてデザインされているが、大飯デモの人たちは真逆なことをしている。

水のような日常性を律する論理は、空気のようなアニミズム的な状態を壊すものである。まさに「水を差す」だ。
ただし、日本人は、情況論理として、その都度その都度の情況に応じて論理を組み立てる。そして空気がつくる状態を補強するような辻褄が合わない論理を実行しても気にならない。
これが、空気醸成の2つめの必要条件だ。

空気が生まれる十分条件 「ある力」を生み出す親子のような疑似的な人間・組織の関係

では、空気を醸成し、抗えない空気をつくる十分条件とは何か?

山本さんは、先に挙げた情況論理の基盤としての日本的な親子関係のような人同士の関係、組織内での人間関係のあり方を指摘する。
これは、簡単に言えば辻褄が合わない主従関係であり、儒教を基本としながらも、それに日本的なアレンジをきかした人間関係の基盤で、「クローズド組織」に典型的に見られるものだ。

これは、原子力ムラに対するメディア報道や、国会事故調の報告書でも述べられている。
原子力の学会では〇〇先生が親分で、それに従う子分がうようよいる。経産省では、原発を推進する部局と、原発を規制する保安院が同居しており、推進部局が親分で保安庁など子分のような扱いだと。
東電と規制当局(保安院)・経産省の関係は、国会事故調の報告書に指摘がある。

東電は、市場原理が働かない中で、情報の優位性を武器に電事連等を通じて歴代の規制当局に規制の先送りあるいは基準の軟化等に向け強く圧力をかけてきた。この圧力の源泉は、電力事業の監督官庁でもある原子力政策推進の経産省との密接な関係であり、経産省の一部である保安院との関係はその大きな枠組みの中で位置付けられていた。
規制当局は、事業者への情報の偏在、自身の組織優先の姿勢等から、事業者の主張する「既設炉の稼働の維持」「訴訟対応で求められる無謬性」を後押しすることになった。
このように歴代の規制当局と東電との関係においては、規制する立場とされる立場の「逆転関係」が起き、規制当局は電力事業者の「虜(とりこ)」となっていた。

東電が親分になり、規制当局は子分になる「逆転現象」が起きたと。

このような疑似親子関係の中で、偉い方から「ある力」が加えられると空気ができると。当然、子分とか、その場にいる人間は、「対象を臨在感的に把握」する感情移入をする人たちで、水を差すことはあっても、その都度の情況に応じた論理で、場に追随してしまう。

これで「日本的な抗えない空気」の出来上がり! と。


■空気を醸成する悪いマインド
ただ、時代は当然変わっており、鴻上さんは「空気と世間」で、空気や世間は、経済的なグローバル化や精神的なグローバル化、会社や地域共同体などの不安定化によって弱まってると言い、冷泉さんの「上から目線の時代」では、空気は消滅した!とまで言っている。

抗えない空気は、現在では、確実に弱まっている。
ただし、先の記事(人災 MADE IN JAPAN  −国会事故調の報告書から見える ”悪い日本的なもの”)で書いたとおり、空気を生み出す悪いマインドは、未だ日本人の中に根強いと思う。

原発事故(要因は) 「楽観さ(による現実認識の甘さ、というか現実を見ないものとする態度)」 「その時々の情況による判断(の甘さ、混乱)」 「組織的な無責任さ(責任ある行動が出来ない)」が浮かび上がってくると思う。
http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120707/1341651860

空気を生み出す悪いマインドと、どう折り合っていけばいいのだろう? また、それをマインドセットすることは出来るのだろうか?
そのために、もう少し深く「空気の研究」を読んでいこう。 (この記事、続く(多分))