中国化する日本   タフなリベラル化する日本の方が良いと思うのだが、、、

日本の歴史ストーリーや見方が変わると話題の「中国化する日本」を読んだ。
確かに、西洋化・近代化・民主化という切り口で明治以降の歴史を学んだものとしては、目から鱗が多く、おもしろい。一貫したパースペクティブで、日本の中世以降、ポスト3.11までの全体を見通す歴史観は刺激的ではある。

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

そのパースペクティブとは、この本のキーワード、「中国化」と「再江戸化」を行ったり来たりする歴史観のこと。日本の中世以降の時代は、大半が江戸的な要素が強く、時々中国化の動きが起きるが、あまり浸透しない。中国化と江戸化が混ぜ合わさると、「ブロン」(掛け合わせの新品種で良いとこ取りを狙うが、逆に悪くなってしまう例え)効果が起こり、悲惨な状況となると。

ただ、読んでみて、すっきりしない点も残る。まとまりはないが、その辺も含めて、つらつらと書いてみたい。

まずは、この本の特徴的なところを見てみよう。

中国化と日本

「中国化」とは、10世紀末から始まる「宋王朝」の時代に、中国が形成した世界初の ”近世”システムのこと。
単純に言うと自由化・グローバル化だが、「経済や社会を徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持する仕組み」と定義している。

具体的には、
〇貴族制度を全廃して、皇帝独裁を実施
〇有名な科挙儒教の経典に基づく官僚採用試験)の採用で、貴族制と異なり、優秀な役人を選抜する人材競争制度を確立
〇「郡県制」(人民を地域ごとに直接統治する中央集権体制)で採用官僚をぐるぐる巡回させ、地方統治をするとともに皇帝に刃向うことを阻止
〇農民に貨幣使用を行き渡らせ(青苗法)、ガンガン儲けさすことで自由市場を拡大
〇世界普遍的な理念(朱子学)で政治統治行為を正統化
などを特徴とした自由競争システム。
近代の先駆けとなる自由と機会平等のシステムは、当時田舎のヨーロッパではなく、中国が最初に作ったとする。

自由というと、単純に欧米をイメージしてしまう歴史オンチとしては、ここで鱗が1枚落ちる。

■平安末期、鎌倉、南北朝時代に中国化の動きはあるものの、、
日本にも、「中国化」の波は来る。ただ、平安末期の科挙制度の導入は、結局失敗というかウヤムヤ。
日宋貿易を通じた「中国銭の導入」は、平清盛後白河法皇などの革新勢力が、農業と物々交換、荘園制に立脚した貴族制度をぶち壊すために拡大を試みた。ただし、守旧派の貴族や源氏勢力に結局潰されてしまう。
その後、鎌倉末期にも中国銅銭の流入拡大が起こり、年貢の銭納化が進むと、「異形の王権」後醍醐が、農業を基盤とする鎌倉武士社会を葬り去る。が、続く南北朝の混乱の中、やはり守旧派の武士に中国化は阻止されてしまう。

日本は、この頃からグローバル化(=中国化)には守旧派勢力が対抗することがわかる。

明治維新は中国化?
この本では、明治維新は、江戸幕府旧体制の自壊に過ぎず、中国化による国づくりが始まるとする。この辺を「西洋化」として捉えている者は、また目から鱗
具体的には、
〇将軍や幕府の二重権力を廃し、明治天皇太政官システムに権力を一本化
儒教道徳に依拠した教育勅語(1890年発布)を柱とした普遍的イデオロギーによる統治
〇日本型科挙制度(1894年高等文官任用試験:現在の国家公務員試験)と競争社会の導入
秩禄処分(1876年)、廃藩置県(1871年)による武士・世襲貴族のリストラと、科挙官僚への代替
〇地租改正(1873年)での土地売買の公認、身分制廃止など規制緩和を通じた市場の自由化
などの競争政策を進めたと。
技術は産業革命を果たした欧米からの輸入が中心だが、政治・統治システムは確かに中国化である。

中国化が一気に進んだ明治維新という歴史の再定義は、欧米一辺倒の日本の近代化という通説よりもリアリティがある。
ただし、明治維新も、徐々に形骸化していく。そう、再江戸化の動きである。

再江戸化 中国化が進むと江戸に回帰する日本

江戸化とは、戦国時代以降の、中国化とは180度正反対の日本独自の近世システムで、江戸時代に確立した。再江戸化とは、この日本型近世システムが、時代時代によって再帰することを指す。

一言でいえば封建制ということだが、以下の特徴がある。
〇自己責任の丸投げ・お上に委ねる主義と土建行政システム
日本の城は、欧州と異なり「公共建築」であり、いざという時、城郭内に避難民を収容して地域住民の命を守るものだった。権力者は、長い戦国時代を経て、秩序の安定を自己の存在理由とし、城づくりなど今日の土建行政につながる公共事業を重視した。
これを農民から見ると、中世・戦国時代までは、自身が帯刀して自分の身は自分で守っていたが、近世以降は「安全をお上に委ねる」ことが可能になるということ。
これは、機会の平等、結果自己責任の中国化とは真逆である。

〇地域コミュニティ・身分制による国民国家の形成
戦国時代の住民は、大名の命じた城郭工事に徴用されるが、それは地域ぐるみの国策協力であり、今一緒の地域で暮らしている人同士の結束力を生んだ。
これを強化・定着させたのが、江戸時代の「イネ」と「イエ」、そして身分制度
江戸時代の稲作普及により、地元で自分の田んぼの管理をきちんとすれば食べていけるようになった。ジャポニカ米が手間がかかることから、きめ細かい小規模運営にならざるを得ず、核家族に近いコンパクトな「イエ」制度が発達し、それが新田開発の起爆剤ともなる。
そこに、相互監視で地域ぐるみによって納税に責任を負う「村請性」が合わさり、地域コミュニティが確立したと。

これは、身分制度や土地に縛られる不自由な社会で、中国化とは真逆である。ただ、その頃の農民から見ると、排他的に占有できる職業や土地を手に入れ、子孫代々そこそこ食べていける安定化をもたらすメリットが大きい制度とも言える。

〇ガス抜きが可能な身分制
中国は宋時代に身分制は廃止されたが、日本では、それよりも600年も後の江戸時代においてすら身分制があったことに驚くべきだと、この本は指摘している。
先に挙げた「イネ」と「イエ」の好循環により、家職や家産が百姓にも与えられた効果が大きいが、長く継続した理由は、そのゆるさにあるようだ。

士農工商」の身分制は有名だが、日本の場合、その地位と役得の一貫性は低い傾向にある。欧州の場合、身分が高い貴族が、地位も名誉も、経済性もすべて総取りする仕組みだが、日本は、総取りを許さないゆるい仕組みになっている。
身分が高い武士が名をとり、下の商の者が経済性の実をとる社会が実現し、身分制の閉塞感のガス抜きをしていると。

〇無責任・権力と権威の分離
多くの歴史上、権威者=天皇と、政治権力者は別で、かつ運営の実権は組織内の複数の実力者に分散していた。士農工商の身分制で権威のヒエラルキーはあるが、先に挙げた身分制の一貫性が低いことも権力と権威の分離の延長にある。
そのため、責任もあいまいになりやすい体制になったと。

〇道徳の価値の低さ、無思想性・無宗教
政治や統治は、複数の権力者の間での利益配分や利害調整が主たる任務となり、統治体制の外部にまで訴えかける高邁な政治理念は出番がない。逆に権力者にとって重要なのは、先にも挙げた地域住民を「食わすこと」にあり、思想性も宗教性も重視されなかったと。
これは、歴史の大事件で言えば、信長と本願寺の石山戦争で、食わすことを重視した信長が、思想重視の本願寺に勝利したことがメルクマールになっている。

このような江戸化は、稲作の急速な発達をもたらした「勤勉革命」を生み出したし、それも含め、今の日本に通じるものが多い。身分制は当然ないが、日本企業の取締役や正社員は、仕事で果たすべき機能が不明確で、身分制のようなものだとする論調もネットでは多い。

江戸化は、今につながる日本人の基盤で、気持ちのいいものとして現れるようだ。


■再江戸化   明治の半ばから昭和は江戸時代?
それは中国化が進んだ明治維新の反動として、明治半ばからすでに起こっている。
明治憲法のあいまいな議院内閣制度の制定や、首相の権限制限によるリーダーシップが発揮できない無責任、無思想体制などもそう。

第一次世界大戦前後からの戦争特需以降、大正日本から昭和恐慌、1940年頃に確立する戦時体制は、典型的な再江戸化と指摘する。
主なものは、
〇ホワイトカラーの固定化、会社の村社会化。
 幹部候補の終身雇用・年功賃金化、新卒定期採用、会社ごとに仕切られた労働組合など、会社に縛り付ける「百姓のイエ制度の近代版」が成立。
〇女性労働者を単なる家計補助員と見做し、単身で自活できるだけの給与を支払わずに、イエへ縛り付ける給与差別が定着。
第一次世界大戦後、世界の貿易が激減し、軍事面を中心に公共事業・国家主導の財政運営の増大。
など、会社のムラ化、軍部・国主導の社会主義=再江戸化が起こっている。

日中戦争から太平洋戦争へ
この本の日中戦争を捉える視点は面白い。それは、近世以来まったく正反対に分かれてきた日本(江戸化)と中国(中国化)のあいだの「文明の衝突」だったと。

中国は、商売が自由の競争社会で、自分の儲けにならないことはやらないので兵隊になって戦うのは最も苦手。徴兵制は機能せず、拉致した人間を身代りに入隊させたり、替え玉を送ったりと ”商売化” してたから、個別の戦闘では日本軍が勝っていた。
ただし、占領統治は、中国人でさえ掌握できない現地社会を、日本人に出来るわけがない。そのため、日本軍部は、いいかげん(=自由)な中国人に対する占領が行き詰まると、キレて虐殺をやるようなことも生じたらしい。

このように兵隊は弱いが、中国の指導者は、世界普遍的な道徳の体現者として訴えて国民を動員し、併せて国際社会の支援も得て日本軍を撃破する作戦に出た。戦時中の蒋介石は、「儒教の本家たる中国に、分家の日本が勝てるはずがない」と演説していたらしい。
まさしく、中華の伝統たるグローバルな正戦論で、日本の江戸時代型軍事動員を凌駕しようとした。実際、米国は日本に対して大陸からの撤兵を勧告して、経済制裁を発動、追い詰められた日本は、対米開戦に突き進む、、、、。

普遍的な理念の中国化と、こまごまと仕切った局地戦に終始した再江戸化の文明の衝突
日本は、中国戦線が行き詰るにつれ、「大東亜共栄圏」というような理念を語り始めたが、理念重視の国の形にしないと、戦争に勝てないと考えた日本人は少なくなかったようだ。
理念や道徳価値の低い再江戸化の時代に、「大東亜共栄圏」理念など中国化が起こるのがブロンで、それは太平洋戦争にまで突入する最悪な事態を招いている。

平成の中国化と再江戸化、そしてポスト3.11の日本と世界の行方

戦後から平成、そして3.11の歴史的な流れでも、再江戸化と中国化は起きている。

戦後から高度成長期まで一貫して、1940年体制が残存した再江戸化の継続。オイルショックが起きた1970年代は、世界的に中国化が進展したのに、日本は「日本列島改造計画」で地方にばらまきを行い、再江戸化が一層強まる。

その後のバブル、その崩壊を経て、小泉政権では中国化が起こったとする。
例えば、
ムラ社会的な中間集団を当てにせず、直接個人に支持を求める(小選挙区制度を活かした郡県制)
〇お気に入りの官僚登用や選挙での刺客候補など、派閥の推薦を受けない小泉式科挙制度
〇(大したことないが)「構造改革」「郵政民営化」という理念というかワンフレーズを唱える
規制緩和の促進(自由化)
靖国参拝など道徳観の提示
などは、確かに中国化のやり方だ。ご本人は、中国との関係を悪化させたが、政治手法は真似たと。

■ポスト3.11の日本、世界の行方
ポスト3.11の日本について、この本では長く続きすぎた再江戸化の時代が終焉し、中国化が「今度こそ始まる」と見ている。

理由は、日本は「中国化」と「再江戸化」モメンタムしかなく、再江戸化をしたくても、
既得権益や生活保障を支えたムラ(企業)とイエ(家族)がガタガタになっている
〇ムラ(企業、地域)の封建制に嫌気が差し日本から逃避する「資本」、イエ(家族)の男性優位の福祉制度に嫌気が差し、結婚や日本から逃避する「女性」を止めることが困難
などから無理でしょう、と指摘している。

一方、中国化の流れは、
〇すでに橋本さんとか地方自治レベルで直接個人に訴える新たな「郡県制」が沸き起こっている
〇人口減少社会が進む中、優秀な移民の獲得競争が起こっている
ため、理念をベースにした自由化が基本になると。

では、欧米を参考にする(西洋化)というモメンタムは、日本は無理か?

この本では、西洋化について、いち早く自由化した中国に、「何故、(欧米にある)法の支配や人権尊重、議会制民主主義がないのか?」という観点から触れている。
これは単純に、欧州では、これらは貴族の既得権益であり、身分制という遅れた時代に生まれた特権を下位の身分に分け合っていくプロセス=西洋の近代化=西洋化であったとする。人権は高邁な精神というより、貴族が持っていた既得権益であり、それを庶民にも配分することが西洋化だと。
その点、中国は、宋の時代から貴族などの身分制度を廃止したから、基本的人権を重視するような西洋化は無い(というか、不要/プヨ)。

日本も、見かけ上は明治以降、西洋化を取り入れたが、その実は産業革命の技術が中心で、その根本にある法の支配や人権尊重、議会制民主主義の精神がどの程度あるのかは疑問が残る。

この本では、「新自由主義英米中3国で同時に始まった」と指摘しているが、中国には自由主義リベラリズム)は無いと。
日本も自由主義リベラリズム)が弱いのなら、今後世界中が一層、新自由主義化する中、中国化するしかないという考えのように思えた。

欧米や各国も1970年代以降、中国化が進んでいると指摘している。
新自由主義化の流れと言えば、わかりやすい。ただ、例えば、正戦を宣言した湾岸戦争の動きや、何も実績がないオバマ大統領にノーベル平和賞を授与し、高邁な理念に対する期待(と言うか、お世辞)は、中華思想に通じる世界観を各国が意識したという分析には、また鱗が落ちた。

■ポスト3.11の歴史観
まあ、今後、本当に日本や世界が中国化するかどうかは、わからない。

日本では、3.11や、消費税増税が実質決まったような状況の中、被災地支援の名目でバラマキ派は勢いを得ていて、国の社会主義的な動き=再江戸化も起こっている。

江戸化の基盤となる、こまごましたムラ・イエ制度についても、例えば原発再稼働をはじめとして原子力ムラは復活するかもしれない。最近話題になる「いじめ問題」でも、事件を隠ぺいする教育委員会を核とした教育ムラの存在がクローズアップされた。
既存勢力のムラは、まだまだ日本の支配的立場にある。再江戸化のモメンタムは大きいだろう。

橋本氏の大阪市など、首長が率先する一部の地方自治体の動きや、それを支持する人びと、また、多くの人々が参加する原発反対デモはどうか?
明らかに、政府を信頼せず、逆に統治者への直接行動や糾弾によって怒りをぶちまける動きだが、これらは江戸化を支える仕組みへの意図的な反対なのだろうか? それとも、「平成のええじゃないか」一揆なのだろうか?
現時点では、何か新しい価値ということではなく、平成の一揆のように見えるが、これが歴史の変節になるかどうかはよくわからない。

この本で、教訓的な面を拾うと、中国化と再江戸化のいいとこ取り(ブロン)をすると、最悪なケースに陥る危険が高いということ。
マインドは江戸的な封建制なのに、頭では普遍的な理念として理想化することで、日中戦争をどんどん進行させてしまったような愚は避けたいものだ。何かの価値・理念(それは中国化のような新自由主義でも、リベラルでも)を謳うなら、制度・システムもそれに倣って、江戸的な制度がミスマッチと判断したら壊していくと。

理念的な国家主義で、個人の自由や経済・社会の自由を縛るファシズムは、今の日本では起こりにくいと思うが、バラマキを進め、ギリギリ再江戸化をしまくってどうにもならなくなった時、ポコッと出てくることは否定できない。
この辺は、リアルタイムの歴史時間の中でチェックして、そして変えることができるのか、わからない。

著者も言うが、好き嫌いは別として、長い新自由主義時代を生きてきた中国人のサバイバル技術、例えば、父系血縁など広く浅い人的ネットワークづくり、など個々に学ぶことも大事かもしれない。
少なくとも、徹底的に政府を信用せず、個人で生き延びようとするバイタリティは学びたいと思う。

個人的には、今の日本では風前の灯のようなリベラリズム(個人の自由尊重と、そのためには社会保障など社会・経済の自由化の一部を制約してもよいという考え)、今までの歴史観で言えば西洋化だが、の新しい価値づくりもあるだろう。この辺が、この本を読んで、すっきりしないところだが、批判という訳ではないし、自分で考えないといけないところ。
まあ、新たなリベラルとか馬鹿じゃないかと思われそうだが、トライ&エラーの積み重ねが必要で、すぐに実現するものではないとは思う。

  試みとしては、例えば、日本2.0 思想地図β vol.3
  http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC2-0-%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%9C%B0%E5%9B%B3%CE%B2-vol-3-%E6%9D%B1-%E6%B5%A9%E7%B4%80/dp/4990524357

いや、まあ、中国化の新自由主義的(個人も、経済・社会も全面自由化)世界はつらそうだし、再江戸化は居心地が悪いし(基本サスティナブルじゃないし、人間を暗くするし)という消去的な面が強いのだけど、、、、。

個としては、タフな中国人的なバイタリティとサバイバル術、社会としては、中国化(新自由主義)でもなく、再江戸化(封建主義/きついコミュニティ主義)でもなく、当然ファシズムでもなく、タフなリベラル。

タフなリベラル化する日本。 その方が中国化する日本よりもhappyなような気がするという感覚的な話にすぎないのだが。