山本七平 「空気の研究」  日本のファンダメンタルをポスト3.11のメディア報道の中で読む(2)

先日書いた 山本七平 「空気の研究」  ポスト3.11のメディア報道の中で読む(1)の続き。
http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120708/134171308

前回は、抗えない空気ができる必要十分条件と、それをポスト3.11のメディア報道の中から拾ってみた。
その必要十分条件は、以下の感じだった。
1)必要条件1:対象の臨在感的な把握
日本人の多くは、対象を ”その場にいるよな感じ” 臨在感的に把握する。対象への感情移入はどの民族でも行うが、日本人の場合は感情移入が大きく、対象に飲み込まれてしまう。
つまり、モノやコトやコトバなどの対象を相対化せず、それに一体化してしまうと。

2)必要条件2:日常性を支配する水のような情況論的な問題把握
日本人の多くは、善悪の判断などを固定・絶対的に行わず、その時々の情況に応じた問題把握を行い、異常な情況であれば、それにあった論理展開をしてしまう。情況論理は、あくまで情況を前提にするので、それを変に設定すると、辻褄が合わない論理をする傾向もある。
つまり、固定論理はなく、あくまでも情況に応じた論理があるのみだと。

3)十分条件:「ある力」を生み出す親子のような疑似的な人間・組織の関係
日本人の集団の多くは、疑似的な親子関係、宿命的な主従関係をいたる所に作ってしまう。そのような場で、親分がある力を少し加えるだけで、その情況に合わせ、対象を臨在感的に把握して「空気が醸成される」。
つまり、情況論理の前提となる考え方の軸は、固定・絶対ではなく、親子のような疑似的な人間・組織関係で設定されると。

山本さんは、このような空気の研究から日本的根本主義(ファンダメンタル)を追及する。
それは何か? それは、ポスト3.11のメディア報道の中でも読みとれるのか? ここでまとめてみたい。

相矛盾するものが併存していても平然としていられるということ

ここで、有名なエピソードが語られる。「現人神と進化論」の話だ。
山本さんが太平洋戦争で捕虜になった時、アメリカ将校が進化論の講義をはじめた。当時、アメリカ人は、「日本人は天皇のことを現人神と信じている」と信じていたので、人間の先祖はサルだと教え、矛盾を明らかにしようとしたわけだ。

ただ、山本さんはじめ、当時の日本人は進化論なぞ小学生の時に習って知っている。それをアメリカ将校に伝えると、逆に彼が驚く。日本人は、サルが人間の祖先という進化論的理解と、(サルが祖先の)天皇が現人神であるという相容れない考えが併存していても全く平気であることにだ。
天皇が現人神であると伝える教科書があるならば、その教科書に進化論は存在するはずがない!」 という整合的な考えだ。

逆に、山本さんや現代の日本人の多くもアメリカの「進化論裁判」、聖書的世界を信じ、進化論を否定する人が裁判に訴えること、は当惑してしまう。進化論を否定するバカなアメリカ人は多いと理解しても、そのような考えの人の中に優秀な科学者がいると聞かされると、考えの根本が違うなと思わざるを得ない。

山本さんは、戦争に負けた当初の日本人について、 ”(戦争に負けた)情況の中で考え、それを臨在感的に把握してしまえば、天皇は現人神的な考えはすぐに頭を切替てやめてしまう。 そこには進化論的な固定論理など必要なく、ましてや一神論的発想があるわけがない ”と指摘する。

このエピソードを聞くと、あらためて思うことがある。
日本にはプリンシプルがないと言った白洲次郎さんや、一時期、柔軟かつ俊敏に切替対応が可能な日本的経営を賛美した人々、そして、ポスト3.11でも原発増税など論理矛盾することを平気で言う人や政党。
規範がなく、頭の切替はいい意味でも悪い意味でも早く、相矛盾するものがあっても平然としていられるという「日本的な風景」。


■分かち難いものも、良いとこ取りできるということ
山本さんは、様々なエピソードを語っているが、新井白石伊藤博文が、欧米の文明を見てとった行動の話がある。

伊藤博文は、憲法調査のため西欧を回って「キリスト教伝統と西欧の憲法が分かち難く結合したものであることを知った。」 しかし、「伊藤はこの分かち難いものを、その合理性(制度としての憲法)だけを分離して、日本に持って帰ることが可能と考え、その方法を探究した。」
これは比較的よく知られた歴史的な逸話だ。

西欧は、ある種非合理な面を持つキリスト教と、その非合理の中から生まれた合理的な憲法が「分かち難い」。一人の中に非合理と合理の二つの声があり、片方だけでは成立できない。
伊藤は、その二つの声を聴き、明治初期には残る儒教的な非合理性を持つ日本には、キリスト教的な非合理性は捨象して、合理的な憲法のみ持ち帰った。「和魂洋才」という奴だ。
日本も、当然非合理な基盤的な面(日本的に変更された儒教精神)と、合理性を持つ。ただ、その二つの声は、切り離すことが出来てしまうと。

ここが、山本さんが「空気の研究」の中である種の狂気を見せる核心部分で深く、圧倒される。

二つの声を分かち難く持つ西欧、それはキリスト教世界と進化論のエピソードのように一見相容れないものなのだが、合理的な進化論は、非合理のキリスト教の中から出てきた。
二つの声を切り離すことができる日本、方や合理的に進化論は理解する。一方、情況に応じて平然と「天皇は現人神である」と臨在感的に把握する。情況論理的な把握は、合理的な考えを必要としないし、相矛盾するものが併存していても意識しない。

■日本のファンダメンタリズム
山本さんは、ここに日本の根本主義を見る。
日本も、非合理と合理の二つの声を持つが、それは切り離される。非合理な面は、各民族が歴史的に養うもので、日本の場合、中国から来た儒教の精神を、それこそ和魂洋才(中華才?)した日本的儒教精神が該当する。ベースは、プリミティブで多様な物神化する神々。。

「・・・(日本の根本主義は)一言で言えば、空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常性の中で解体吸収しつつ、その表面に出てくる「言葉」は相矛盾するものを平然と併存させておける状態・・・。略 この基礎はおそらく汎神論であり、、、これが我々の根本主義ファンダメンタリズム)であろう・・(P212)」

長い歴史の一時、日本的儒教精神のようなプリンシプルは存在するが、そのようなものは解体され、その都度の空気や、その情況に応じた情況論理的な水が支配するということが日本の根本主義だと。

まあ、プリンシプルはないし、その都度の情況に合わせた実利的、ご都合主義的な合理性は発揮する。ただ、非合理と一体となった絶対的な合理はなく、相矛盾することの併存のような非合理もok。

このように見れば、以前書いた、鴻上さんの「空気と世間」で、世間が弱まると空気が強まる、とか、冷泉さんの「上から目線の時代」で、日本人には空気が必要で、それが弱まってるからコミュニケーションがしんどい、とかの論調がよくわかる。
だって、プリンシプルがなく、空気だけなんだから。

  冷泉彰彦 「上から目線」の時代  その次の時代のコミュニケーションを薄ぼんやりと考える
       http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120701/1341161728
  鴻上尚史 「空気」と「世間」  blog初心者の僕としては肝に銘じないと、、
       http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120620/1340207465

ポスト3.11のメディア報道と日本の根本主義

このようなファンダメンタリズムと、ポスト3.11の情況、特にメディア報道は、どのように見ることができるのだろうか?

山本さんも、この本の中で、「・・日本の新聞を読むとき、人々はある種の思想を黙示録的に伝達することによって、その読者に一切の論理・論証を受け付けないようにしてきた・・・」とある。

この意味では、多くの人が指摘する
原発の危険を科学的に把握せず、むやみに怖がって混乱する人びと、とか
・被災地のがれき処理を他の自治体が行うとき、がれきの放射線量とか把握せず、むやみに反対する、とか
・被災者を臨在感的に把握して一体化し、寄付するのはいいが、自分も経済的に自粛し、一層の不況を招いている、とか

などは、ポスト3.11のメディア報道、「論理を受け付けない」タイプの報道が煽っている面がある。
また、原発に反対していることと、被災地のがれき受入反対という、被災者に寄り添うという観点からは相矛盾する言動をとる人びとへの批判もネットではよく見かける。

一方、3.11前の原発に対して、積極的か消極的かは置いておいても、原発推進という空気はさすがになくなった。
単に、原発事故怖い! からというだけではなく、安いと言われたコスト面の問題、絶対安全と言われた安全性・信頼性の問題、クリーンと言われながらも核廃棄物処理が行詰まっている問題、など論理・論証がでている。

原発事故を臨在感的に把握しての空気も健在だが、合理的な論議・論証も出てきているという状態。
これが日本のファンダメンタルからくる「原発推進から脱原発の単なる空気の変化」や、「原発事故後の情況判断による、とりあえずの情況論理的な議論」と見るべきか、それとも何かが変わりつつあるのか?

どうでしょうか?

■ポスト3.11から変化はあるの?
一つ注目したいのは、前にも書いたが、国会事故調など検証作業の行方とメディア報道や人々の関心。
福島第一の事故を検証する国会事故調が、今回の原発事故を「人災」と位置付けた報告書を提出した。報告書は600ページを超すものだが、今後も継続して事故の検証を続けていくべきだとしている。
その後、この報告書の ”はじめに” 文章の中、黒川委員長が、英語版では「MADE IN JAPAN」と呼べる日本的な構造問題が今回の事故の背景にあると指摘し、国内外のメディアが賛否を示した。

この辺は、以前僕もまとめている。
   人災 MADE IN JAPAN  −国会事故調の報告書から見える ”悪い日本的なもの”
     http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120707
   福一国会事故調報告書に対する欧米メディアの批判、、、「MADE IN JAPAN」が、まんま
   世界に流通する時代と思うゆえに、同報告書を擁護する
     http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120713

まあ、言いたいことは、原発事故の検証作業を根気よく続けていくかどうかだ。これは検証作業に関わる人の話だけではなく、メディア報道がどうされて、人びとがどの程度関心を継続して持つかということ。
この辺が、日本が「変わる」のかどうかの一つの見方になると思う。

山本さんは、「空気の研究」の根本主義を記述している中で、合理性の追求の話をしている。
彼は「合理的に追及する力」の源泉として、非合理的なる力を挙げる。そして、 ”その非合理を「去勢」すれば、合理性の追求は結局「言葉の遊戯」になり、・・・現実に作動しない”(P205)

合理の裏にある非合理性なるものの存在が、原発事故の追求のような合理の強さをつくると。非合理が去勢されると、うやむやな言葉遊戯のみになっちゃうと。

ポスト3.11の日本のファンダメンタルと変化。なにもファンダメンタルが根こそぎ変わるなんてことはないだろうが(それこそ変)、それでも何かの変化が起きるのか。
これは、続けて考えていきたいと思う。 (「空気の研究」読みで ”続く” かどうかはわからないですが、、)

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

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プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

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