山本七平 「空気の研究」  山本さんのアフォリズムをポスト3.11のメディア報道の中で読む(3)

先日書いた、 山本七平「空気の研究」 日本のファンダメンタルをポスト3.11のメディア報道の中で読む(2)の続き。
     http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120715

この本のシリーズの最後に、山本さんのアフォリズムと、ポスト3.11のメディア報道について書いてみる。それは「空気」と「自由」の関係にも行き着く。
まあ、自戒の念を込めて。


■空気が出来る必要十分条件と、その基盤(日本のファンダメンタル)については、以前にまとめた。ざっと、以下の感じ。

1)必要条件1:対象の臨在感的な把握
日本人の多くは、対象を ”その場にいるような感じ”=臨在感的 に把握する。対象への感情移入はどの民族でも行うが、日本人の場合は感情移入が大きく、対象に飲み込まれてしまう。
つまり、モノやコトやコトバなどの対象を相対化せず、それに一体化してしまうと。

2)必要条件2:日常性を支配する水のような情況論的な問題把握
日本人の多くは、善悪の判断などを固定・絶対的に行わず、その時々の情況に応じた問題把握を行い、異常な情況であれば、それにあった論理展開をしてしまう。情況論理は、あくまで情況を前提にするので、それを変に設定すると、辻褄が合わない論理をする傾向もある。
つまり、固定論理はなく、あくまでも情況に応じた論理があるのみだと。

3)十分条件:「ある力」を生み出す親子のような疑似的な人間・組織の関係
日本人の集団の多くは、疑似的な親子関係、宿命的な主従関係をいたる所に作ってしまう。そのような場で、親分がある力を少し加えるだけで、その情況に合わせ、対象を臨在感的に把握する子分・集団が「空気を醸成する」。
つまり、情況論理の考え方の基軸・規範は、固定・絶対ではなく、親子のような疑似的な人間・組織関係の親が基軸となり、情況論理を作り出す起点となると。

4)日本のファンダメンタリズム
日本も、非合理と合理の二つの論理を持つが、それは切り離される。非合理な面は、各民族が歴史的に養うもので、日本の場合、中国から来た儒教の精神を、それこそ和魂洋才(中華才?)した日本的儒教精神が該当する。
その日本的儒教精神の規範は、限られた範囲で成り立つ「一君万民」で、親分(一君)が情況論理の支配者となる(ファンダメンタル1)。

ただ、長い歴史の一時、日本的儒教精神のようなプリンシプルは存在するが、そのようなものは時代とともに切り離され、解体(希薄化)される。そして、その都度の空気や、その情況に応じた情況論理的な水が支配する「その場の合理主義」が前面化する(ファンダメンタル2)。
(注:ファンダメンタル2は、明確には山本さんは言っていない。僕的にまとめた面がある)

「空気の拘束」と典型的な日本人のふるまい

前回までに、空気に拘束された日本人に見られる直接的な振る舞いをポスト3.11のメディア報道の中から見た。
ここでは、山本さんが挙げる ”ちょっと捻った日本人の振る舞い” をポスト3.11から拾ってみよう。

■「自己と対象の一体化は、対象の分析を拒否する心的態度であり、対象の把握は、対象の分析では脱却できない」
3.11前の原子力ムラは、原発=安全という一体化しかなかったことは国会事故調も指摘している。絶対安全であるがゆえに、事故対策を怠るトンデモだったことが明らかになりつつある。

3.11当初から数カ月、僕は、原発事故に没入だったし、当初のメディア報道は、政府発表のダダ漏れ的な報道で、数か月間は対象の分析などという高尚なものではなかった。

最近では、「感情的な反原発派」に対して、原発を ”怖いもの”として自己と一体的に把握し、原発を調べもしない(対象の分析を拒否)、放射線物質の身体への影響など科学データを見せつけられてもデータを信頼しない(対象の分析では脱却できない)として科学合理的な「原発推進派」が批判する意見が、ネットでは多く見られる。
この辺は、まあ、山本「空気の研究」的な見方。


■「臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為が廻り回って未来にどう響くかを判定できない」
3.11前の原子力ムラは、原発=絶対安全の空気だから、原発事故が起こる未来など想定しない世界。

ポスト3.11でも、このような見方は「感情的な反原発派」に対して、経済合理的「原発推進派」の意見として多くあった。
”怖い” という臨在感的な原発事故の把握は、原発を停止したら化石燃料の輸入増加などで電気代は上がることを考えずに言っているという意見。これは、ネットでも、新聞報道でも、原発依存度0%、15%、20−25%を決める「国民的議論」の意見聴取会でもある議論。

この辺も、山本「空気の研究」的な見方を踏襲した論調が目立つ。


■「空気支配を完成しようとする者にとって、排除すべきは、”対象を相対化する者” 」
3.11前の原子力ムラは、そうだったことがメディア報道でも多く指摘された。原発の安全性に疑問を呈する者は、学会、政策立案、原発立地場所、当然電力会社内で排除されたと。

ポスト3.11では、どうかな?
「感情的な反原発派」は、対象を相対化する試みを科学的にしている、または経済合理的にしている「原発推進派」を排除しているという関係ではない。お互い交わらず、統一的な空気は無いと言った状況だろう。

まあ、3.11前の原子力ムラは当然だし、ポスト3.11の原発に関しても、「臨在感的な把握」はまだまだ健在(というか、原発事故当初は支配的)だと言える。
ただ、全体を支配する空気は未だ醸成されておらず、分断されていると。


■「情況論理は何か(親のような)への忠誠を起点とせざるを得ず、どの親に帰属するかの判定リトマス紙が必要」
3.11前は、原発推進を起点として原子力ムラに帰属することが、Fukushimaでも、経産省でも、東電でも支配的だったろう。

ポスト3.11の原発事故の取材でも、メディア報道にイライラさせられていた現地の人から取材陣に対し、「お前は原発推進派か反原発派か?」と問われたというネット報道や新聞記事は、何度か見た。現在も、どちらの派に帰属するかのリトマス紙は必要な感じが続いているかもしれない。

原発原発推進・維持の立場は、それぞれを補強する情報が多く、情報を集めれば集めるほど判断がつかなくなることがある。こうなると、多くの人々は、何かへの忠誠を起点として、そこから出発せざるを得ない。
これは、情況論理が未だに支配的な面を示しているのだろう。


■「情況論理で正当化する者は、造り出された情況に自己も参加したしたのだという最小限の意識さえ欠如している」
これは3.11直後の保安院や東電、経産省の会見で出まくった話。大地震、大津波の情況は想定外、から始まり、原発事故の情況はあまりにも深刻で、対応が遅れたとか、判断が出来なかったとかの言い訳を散々聞かされた。
本当に、彼らは自己も情況を作り出したという当事者意識が欠如していた。

3.11から1年以上たった今はどうかな。
大飯原発再稼働の話は、この夏の関西地域の電力不足懸念や燃料輸入増によるコスト高という情況を正当化し、反対デモに参加する人たちを小馬鹿にする論調もネットでは多い。馬鹿にするのは、あんまりだと思うが。。
最近、お約束になりつつある首相官邸前の再稼働反対デモの参加者は、いろいろな人がいるから一概には言えないが、「何をしていいのか良くわからないが、何かしなくては」との焦燥感の人が多いとも聞く。単純な情況論理・判断とは違うものを求めるが、その「違うもの」はわからないという感じかな。

まあ、情況論理もまだ健在だが、それ以外も求め始めていると。


■「絶対者(親)が創出する情況に応じて臨在感的に把握する以外に方法がないと空気が生まれる」
これは、空気醸成は、限られた範囲の絶対者(親)が情況を設定し、それに従う者がその情況を臨在感的に把握することで空気が生まれることを意味している。
3.11前の原子力ムラは、偉い先生(御用学者)のご託宣、金をばらまく東電、立地地域に金を回す制度をつくる官僚が情況を創出し、むら人がそれに従う典型的な空気醸成システムだったことがメディア報道でも伝えられている。

ポスト3.11は、どうかな?
先に挙げた大飯再稼働反対デモの参加者は、twitterが動員したとしても、何も「電気より生命」という坂本龍一に動員されたわけじゃないだろう。デモに参加した有名人=絶対者がつくる情況に応じたというより、自発的だったように思う。

原発依存度のシナリオを決める「国民的議論」の意見聴取会で、20−25%シナリオを語った中部電力の社員。今までのタウンミーティングのような「やらせ」ではなく、自発的な行動だったようだ。

日本の集団主義で中心だった親分(絶対者)の存在は、かなり希薄になっているような気がする。まあ、それだから支配的な空気が醸成されていないのかもしれないが、、、。


■「何かを追及するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の中ではできず、それから独立して可能になる」
徹底的に追及するということはなく、「うやむや化の原則」が存在するのは今までの日本。

ポスト3.11ではどうになるのか?
「うやむや」にせず、悪いものを追及して罰しろという論調は高まっていると感じる。
国会事故調の報告書(英文)で、「Made in Japan」という表現に国内外からの反論があった。原発事故を日本文化が背景にあるとし、「犯人は日本人!」というような「うやむや」を臨在感的に感じ取ったことが基底にあるのだろう。

僕は、国会事故調の報告書は一通り読み評価している。例えば福島原発一号機の事故原因は、「大津波とは断定できず、その前の地震による揺れでの損傷が原因であることは否定できない」とまとめた根気のある分析作業を いいね! と感じている。


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まあ、確かに、親分(絶対者)の存在や集団主義的な空気醸成は、ポスト3.11で希薄になっていると感じるし、情況論理以外を探し始めているとも感じる。
そのため、以前書いた 冷泉さんの「上から目線の時代」で指摘した空気の消滅と、視線の重視の時代があるのだろう。

     冷泉彰彦 「上から目線」の時代  その次の時代のコミュニケーションを薄ぼんやりと考える
      http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120701

ただ、「集団主義的な親分支配から独立して、はじめて ”追及する” という持続的・分析的な作業が可能になる」段階まで達しているとはとても思えない。
そのきっかけになり得る国会事故調のような継続作業を望むし、「Made in Japan」とかいうスローガンだけに反応して、うやむやにするなというバッシングな人びとの空気の醸成を恐れる。
まあ、すぐ、うやむやになるだろうけどさ。

「空気の研究」アフォリズム

ポスト3.11でも垣間見える「空気の研究」で読む日本人の振る舞いをまとめたが、最後にアフォリズムを。

■ ”半永久的に固定化した「全体空気拘束主義」は、破局的に危険。”

ころころ変わる空気なら、まあトホホで済むが(済まないかなあ)、空気が固定・永続化する「全体空気拘束主義」になると、ファシズムより厳しい状況になるはずだと山本さんは警句を発している。
先の大戦に突っ走った日本を想起するが、どういうプロセスでなるのかは、ちょっと分かりずらい。
で、

■”人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかし我々(日本人)は、この言葉で構成された未来を、一つの実感を持って把握し、これに現実的に対処すべく心的転換を行うことができない。”

うむ。人間は誰だろうが未来は言葉でしか構成できないが、日本人は臨在感的把握が得意で、言葉による未来を実感できないから、未来を見据えての行動が苦手だと。「情況の変化に対応をし得ても、将来の情況を言葉で構成した予測には対応し得ない」と。

■”日本の非合理性は、それ自らで合理性へと志向する活力を抑えられる。だが、内在した非合理性が一つの解決を目指す力に転化して暴走を始めた時、合理(憲法など)は制御装置としての力は発揮できず、実質的には空文と化してしまう。”

うむ。日本人が内在化する非合理性、希薄化したとはいえ日本儒教的な親子関係の忠孝とか、その場での情況論理主義とかが暴走すると、一応民主的に整備している憲法などの合理性では制御できず、そんなのは空文化すると。欧米のような合理の歯止めがきかないと。

■”新しく何かを生む出すには、空気の拘束を断ち切った「自由」すなわち「自由なる思考」だけだ。”
それがなければ、我々(日本人)は、”常に情況を設定する既存の対象を臨在感的に把握して、それとの関係で自らを規定する以外に方法がない” ”その発想は、将来に向かって、 「その趨勢は避けられない・・」 という宿命論に盲従することしか生み出さない”

日本人の「自由」とは、ちょっとした「水を差す自由」くらいで、「個の自由」は無いと。日本の通常性(基盤)は、「実は個人の自由という概念を許さない疑似親子の関係の世界、それは集団内の情況論理による私的信義絶対の世界にすぎない」と。
うーーむ。

未来を見通さず、内なる非合理がひとたび暴走すると合理などは吹っ飛び、新しく何かを生み出す「自由なる思考」が空気で抑圧されていて、将来に対しても”その趨勢は避けられない” という宿命論に盲従する、、、、と。
このメカニズムが動き出すのが、「全体空気拘束主義」なのかもしれない。
原発事故(これは未来も起こり得るのだが、)と、その経済・社会への影響が、このメカニズム発動のフックにならなければよいが。。。

山本さんは「空気の研究」の書いた目的を、自己を拘束する正体(空気)を把握し、それから脱却することとしている。
まあ、個人個人が、「日本の空気=通常性の規範」を理解し、それを断ち切る「自由なる思考」つまり、自由に見たり聞いたりして、自由に考え、自由に発言するという当たり前なことをするということだけだが。