冷泉彰彦 「上から目線」の時代  その次の時代のコミュニケーションを薄ぼんやりと考える

冷泉彰彦氏が「日本語におけるコミュニケーション不全の問題と向き合う中」で書かれた今年発行の本。身近な事例が豊富に挙げられていて非常に分かりやすく、かつ今の日本のコミュニケーション状況を考える上でとても参考になった。
そして、まとまりはないが「上から目線」の時代の次に来るコミュニケーションについて、薄ぼんやりと考えてみた。


「上から目線」の時代 (講談社現代新書)

「上から目線」の時代 (講談社現代新書)

僕にとっての冷泉さんは、村上龍氏が主宰するメールマガジン「Japan Mail Media」で今も続く「from 911 / USAレポート」のコラムニストという存在感が大きい。
9.11は本当に衝撃的な事件であったし、その当時は3.11の時と同様、何かに憑りつかれた様に情報を集めまくっていた。多くの情報が「テロ」「宗教」「アメリカ政治」「文明の対立」など大仰でうんざりする中、冷泉さんの暖かくかつ冷静で、アメリカの街中にしっかり足をつけた目線のレポートとに触れると癒される思いがしたものだ。
現在も、from 911 や、Newsweek日本版「プリンストン発 新潮流アメリカ」は楽しんでいる。ただ、彼の著作に接するのはこの本が初めて。

「目線」が意識される時代、、消滅する空気と目線の関係

「上から目線」という言葉は今の流行だ。僕も使うし、たまに言われる(苦笑)。
僕なんかは単純に「いつの時代にもいる偉そうにものを言う奴」に対して「いつも人間関係(上下関係)を気にする日本人」が使いやすい言葉だと考えていた。つまり、いつの時代にも通用する言葉だと。

冷泉さんは「今は目線が非常に意識されている時代」と指摘している。「いつも」ではなく、当に「今」の時代の言葉であると。
何故、今が目線の時代なのか?  
日本人のコミュニケーションに欠かせない「空気」が消滅しているのではないか、とズバリおっしゃる。

例えば1990年以降でも、社会的に大きな流れの空気として、会社だったら「成果主義を採用しようとする空気」、 経済・社会的にも「国際化へ対応しようという空気」、 政治でも「規制改革や構造改革で明るい日本!」などの空気は発生していた。ただし、ここ数年は、上に挙げた例なんかも実践の中で「困難の感覚」が大きくなり、新しい大きな空気のうねりが消滅していると。
たしかに。。。 企業での成果主義は、本当にうまくマネジメントできていないし、じゃあ昔ながらの年功的なあなあ主義にも戻れない困難さの中にある。昨今の「税と社会保障の一体改革」だって、とても大きなテーマだけど、賛成や反対の大きな空気は醸成されておらず、しらけたムードが漂い方向感がない。

日常生活の身近な場や会話でも、少し前までは共通の認識や同質感の中で場や関係の空気が生まれ、比較的スムーズなコミュニケーションが出来ていた。ただし、ここでもコミュニケーションの困難さが広がっているという。
例えば「パワハラ上司」。昔も威張りちらす上司はそれなりにいたが、 ”上司の方は昔から使っていた部下への注意・指導のつもりで叱責をしたとしても、受け取る部下の方がパワハラモラハラだと感じてしまったら深刻なコミュニケーション不全が起きてしまう” 状況が今だ。
少し前には通用していた上司と部下の会話のテンプレートが急速に無効になっており、調和的な空気の醸成や居心地の良さづくりが難しくなったと。その他にも、「ガンバレ」という言葉の使い方とか「管理職うつ」とか、豊富なわかりやすい事例でコミュニケーション不全(空気の消滅)の時代が語られる。

ある種の困難な感覚が支配し、典型的な会話のテンプレートもうまく使えなくなり、調和の空気が醸成できない場で最も嫌われるのはKY(空気読めない)となる。これも少し前に流行った言葉だ。KY発言が、その場が抱えているコンフリクト(摩擦)を炙り出してしまって、全員が凍りつくことは避けたいものだ。
調和の空気が醸成できず、KYでコンフリクトを炙り出すことは嫌な中で、場の空気を読むのはしんどいし、難しい。そうすると人々は、場の空気をつくることなく(空気の消滅)、お互いの目線だけを意識することになってしまうと。

冷泉さんは、「空気」を日本人のコミュニケーションにとっては不可欠のもので、調和を図る装置と考えているようだ。それが消滅することは、コミュニケーション不全を起こし、空気読み行動も難しくなり、その場にいる人々の視線を読むことになっていくと主張しているように読める。
その中で、「上から目線」が問題となる時代であると。


■「上から目線」のあれこれ、、価値観対立やモンスター対策
この本では、様々な「上から目線」の事例が出てくる。先に挙げた政治とかの大きな目線や日常会話の目線とともに、価値観対立と目線、モンスター対策と目線の問題などが話題となる。

例えば、ノラ猫の増加が社会問題となってきた中での猫好き派と猫嫌い(迷惑)派という他愛もない価値観の違いによる目線問題。
猫好き派は、動物愛護の精神のもとにノラ猫にエサを与える。猫嫌い(迷惑)派は、糞や鳴き声、臭いなどに困り、場合によってはノラ猫処分まで行ってしまう。
猫が好きとか迷惑だとかという価値観が共有できない状態の時、猫嫌い派から見ると、猫好き派の動物愛護や虐待防止という上からの正論が、自分の立場を下にしてしまうと感じる上下目線の対立(コンフリクト)が起こると。

暴言や直訴までして学校に何でも要求するモンスターペアレントのようなモンスター問題も目線対立が存在する事例。
先生は偉い!という一昔前なら共通の前提が壊れている今の時代、モンスターペアレントは親として怒りが湧いてきている時に、先生が学校の言い分や教師の権威という上から目線の言葉でしゃべると、自分が下の立場に立たされたとブチ切れ、当にモンスター化すると。

「上から目線」が問題になるのは、話し合いの前提になる価値観が共有できない→何らかのコンフリクト(摩擦)が発生→一方が他方を昔からの価値観で押し切ろうとする→押し切られそうな立場が見下されたという被害意識を持つ、、という構造問題だと指摘する。
確かにそうかもしれない。ただ、そうだとしてもこれらの問題は、少し冷静になるだけで上に挙げた構造問題はわかりやすいから、解決策も比較的簡単に出てきそうな気もする。
ただ、事情はもう少し複雑だと冷泉さんはおっしゃる。それは日本語問題。

日本語の構造と「上から目線」の関係

この本の中で最もスリリングなのは、「日本語の特質と上から目線」の章だ。
僕は上から目線のような上下関係(人間関係)は、人との関係の中で自分を確認する日本人特有の問題で、一神教の神と自分との関係を唯一とする欧米では意味がないんじゃないかと考えていた。
冷泉さんは、この考えを否定はしてないが、こんな大袈裟で陳腐な話ではなく、日本語の特質から切り込む。

彼によると、通常の日本語の会話は、実は対等の会話など存在せず、常に上下関係という枠組みがデフォルトで設定されているという。  うむー。
日本語の会話は、「話し手と聞き手」という分担や、「断言する人とあいまいな人」との関係や、「質問する人と答える人」の上下関係が常に構造化されていると。そんなの当り前だし、海外だってそうでしょ、と一瞬思う。
ただ彼は、例えば話し手と聞き手の関係において、日本語の会話はあいづちを重視(というか、礼儀と言う構造化)するのに対し、米国ではあいづちなど無意味で「じっと相手の目を見ながら黙って聞く」のが正しいとされるという。日本はあいづちという形で話し手を尊重し、上に見る枠組みがあると。
一方、米国の英語会話はお互い平等で、黙って相手を見て聞いているが、すかさず今度は自分が喋りだすと。

このような、1)話し手と聞き手の役割分担、2)断言などの会話の形式がもたらす上下関係、3)社会的地位、人間関係による上下関係、が複雑に絡み合って日本語の会話は成立しているという。その中で、敬語が重要な役割を果たすと指摘する。

では、このような日本語会話の特質の中で、目線はどんな意味を持つのか?
当然ながら上下のような関係を意識する目線は、上下関係の枠組が基本の日本語会話にとってマッチしている。逆に言えば、日本語会話にとって、上からとか下からとかの目線を意識することは、逃れにくい必然的に湧き上がるもので、それが重苦しさを形成するとしたら深刻な状況ということになる。

今の時代、さすがに上下関係の絶対性は希薄になりつつある。ただし、それでも日本語の特質は恐ろしいほどの粘りを発揮する。例えば、この本で最もおもしろかった事例である「勝間−ひろゆき対談」がそれを物語っている。
ご存知の方も多いと思うが、この対談は、勝間さんの番組にひろゆきさんがゲストとしてこられ、インターネットにおける匿名/実名問題の良し悪しを話し合ったものだ。僕は、直接は聞いていないが、ネットで話題になっていたことは記憶している。
この対談は、勝間さんがネットでの匿名の問題点(まあ2チャンネルとか)とか、実名の良さ(まあFacebookとか)とか指摘して、ひろゆきさんに問うたのに対し、彼はほとんど話をはずらかし、全く話が噛み合わなかったらしい(まあ、そうでしょう)。
で、対談の最後に、あの強気のカツマーが「上からものを言われている感じ」と発言したらしい。あれれ、上下関係なんて考えてもなさそうな勝間さん(ひろゆきさんもそうだろう)が、上から目線と感じるというのは非常に面白い状況だ。

冷泉さんは、この勝間発言を日本語特有の関係性問題として捉える。上下関係なんて意味ないと思っている勝間さんでも、対談と言う人間関係では調和(それは、意見の対立などokだが、話し合いが成立するという意味)を求めることが前提になっていると。その調和が失敗すると、いみじくも「上から言われている」という上下関係に規定してしまうくらい日本語の上下関係構造は厳格だとする。

上から目線は、単に上下関係を意識する人間とかだけじゃなく、カツマーすら捉えてしまう日本語会話に固有の面があるとの指摘は非常に感銘を受けた。この辺の論調は、アメリカ プリンストン日本語学校で外国人に日本語を教えるコミュニケーションのプロとしての冷泉さんの凄みを感じさせるところ。是非とも直に本を読んでふれて欲しいと思う。

このような日本語特有の問題で目線から逃れにくい構造の中、では上から目線という息苦しいコミュニケーション不全の時代をどう生き残ればいいのだろうか?

「上から目線」時代のコミュニケーションと、その後のコミュニケーション

「上から目線」時代のコミュニケーションについてのアドバイスも、冷泉さんは極めてプラクティカルに述べている。この辺も、直に本書を捲って考えて欲しいところなので省くけど、キャラとか、です・ます調の会話とか、価値観対立のスルーとか、その他いろいろ具体的な処方箋が説得力を持つ。

まあ、キャラが立つとコミュニケーションしやすいよね。
ブログでも、おちゃらけ社会派、とかは分かりやすいイメージの喚起力があるし。

です・ます文体も大人の距離感があっていいかもしれない。
僕のブログも「です・ます調」にしようかな。だ・である調だと、そのきつい感じを和らげるために、・・・と。で終わるのを使いまくるし。(ちなみに冷泉さんは、ネット系は「です・ます」調、書籍は「だ・である」調だから単純にです・ますが絶対という訳でもないだろう。)

冷泉さんの上から目線時代のコミュニケーションに対するアドバイスは、具体的で、特に今コミュニケーションに苦しんでいる人たちへ寄り添うという意思を感じる。これは、前に書いた鴻上尚史さんの「空気」と「世間」にも相通じるものだ。

鴻上尚史 「空気」と「世間」  blog初心者の僕としては肝に銘じないと、、

http://d.hatena.ne.jp/morissk/20120620/1340207465

その鴻上さんが『「空気」と「世間」』で、息苦しいと言っていた「空気」が、冷泉さんの「上から目線」の時代では消滅し、より息苦しい「目線」が浮かび上がってきた。
じゃあ、今後はどんなコミュニケーション状況になるのだろう。世間→空気→目線の次はどうよ? と。

冷泉さんは、この本の中で

個人主義イデオロギーとか神との対話といった大げさなものではなく、日本人は静かに「自己」というものを見出した。いったん自己を見出した日本人は、滅んだはずの昔からの秩序に従って「上下関係のどこか」に自分を規定されることに対して、ハッキリとした違和感を表明し始めたのである。

と書かれている(P242)。
この辺は、言ってることはそうかなと思うが、ちょっと唐突感があって分かりにくさが残った。

確かに、欧米の個人主義一神教を見習って自立したコミュニケーションしましょう、、というのは少し無理筋ではある。ただ、昔ながらの人間関係(上下関係)の中で自分を規定するのも嫌だ。
冷泉さんは、 ”日本人は静かに「自己」というものを見出した” 事象として東北大震災の時に起きた事例を挙げているようにも読める。あの非常時の時に垣間見えた「平等な関係」、それは神の前では人は平等というそれではなく、上下関係の枠組を持つ日本語で成り立ったお互いの尊厳に基づく平等。
とても脆いものだが。。。


■平等がベースのコミュニケーションの時代は、いいことだらけ?
考えてみれば、多くの日本人にとって「人間は平等」というのは、学校で学んで世間で暮らす中で見失ったものだ。そしてアジアなどの新興国が躍進するグローバル時代になって、日本の狭い世間が吹っ飛び、当たり前のスタートラインとして再認識しているところだと思う。
別に外人とつき合わなくても、いろいろな日本人とつき合い、いろいろな所属をすれば、空気も透明になるし、目線も平行になるかもしれない(ひょっとしたら)。

まあ、目線を意識する時代から平等とか、(いきなり飛躍するが)公共とかを意識したコミュニケーションが広がる時代になると、いいね! とは思う。この辺は冷泉さんは、意識してかどうか不明だが、触れられてはない。無理とは知りながら、アメリカの事例とか踏まえて冷静に記述して欲しかった気持ちもある。

そのような平等をベースとしたコミュニケーションが日本で拡大したら、happyな世界だろうか?
多分そう、、だろう。
ただ格差だか、階層だか、階級だか、どう呼ばれるかわからないがセグメント化は進むだろう。