鴻上尚史 「空気」と「世間」  blog初心者の僕としては肝に銘じないと、、

世間とか社会、一時期よく言われた空気とかがわかりやすく説明されていて、とてもおもしろかった本。重たくなりがちなテーマなのに、著者のエピソードとか例え話が身近で、わかりやすいのが最大の魅力と感じた。

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

著者の鴻上尚史さんは、1980年代から活躍している劇作家・演出家。彼の代表作の一つでもある「朝日のような夕日をつれて」は87年版を観た。その当時も演劇は大ブームで、つかこうへい、蜷川幸雄清水邦夫唐十郎野田秀樹は、よく観たものだ。鴻上さんは、お顔立ちがムーミンパパのようにおっとりされていて、そのエッジたつ芝居とのGAPが当時から印象的だった。(つかさんとか他の演劇人は、顔立ちからして、いかにも”演劇している”という感じでしたから)
おっとり普通の世界とエッジがきいた世界の両方に愛着があるんだろうと勝手に想像し、その間の振れ幅の大きさが彼の演劇の魅力と思う。

「空気」と「世間」という本も、おっとり普通の世界に生きている人たちに寄り添って書かれた本という印象。「いじめに苦しんでいる中学生にまで届いてほしい」「この本を読んで共感したら、子供たちにも内容を伝えて欲しい」と最後のページにあり、そのメッセージを受けて、書評というかメモを。

「世間」と「社会」、、そして「個人」

この本では、いきなり世間を分析した大家、阿部謹也氏を引用し、まとめる。

”日本の「個人」は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本には存在しないのです。独立した「個人」が構成する「社会」なんてものも日本にはないんです”

ストレートに、日本には西洋的な社会はなく、ただ世間があるだけだと。じゃあ、その世間とは何か?
これも阿部さんの趣旨を踏まえ、「世間とは、自分に利害関係のある人々との世界のこと」とする。そうすると(日本での)社会とは、自分に関係のない世界という身も蓋もないことになる。
これを、電車に友だちで乗り込んでくるオバチャンによくある行動、つまり友達との関係(世間)を大事にして席を占有するが、周りの知らない人(社会)には無関心というような事例とともに語られていて、とても分かりやすい。

じゃあ、世間を成り立たせる基本ルールとは何か? 5つ挙げている。
ルール1:贈与・互酬の関係
もちつ、持たれつの関係だと。例えば、お中元やお歳暮を贈る慣習とかが例示される。ここで面白いのは、例えば部長にお中元を出すときは、その個人ではなく、部長というポジション・場が重要だという指摘。
うむ、確かにそうだ。

ルール2:長幼の序
年功とか上下関係が存在すると。日本の典型的な世間である「日本の会社」が大事にしてきた年功序列などがわかりやすい例。そんなの壊れつつあるとしても、飲み会で年上の人がしゃべると真面目に聞いてる(ふりをする)のは、今もある。これも納得。

ルール3:共通の時間意識
同じ時間を生きてるし、今後もそうだと。よくビジネスで使う「今後ともよろしくお願いします」という言葉は、今も今後も共通の時間を持ちましょう、ということだと(つまり世間意識の世界)。やや強引だが、個人の時間を生きるのではなく、集団の時間を生きるのが世間だと。なるほど。

ルール4:差別的で排他的
世間は身内に気を遣い、他を差別すると。逆に言うと、他を差別することで世間を強化する動きがあると。 はい、よく理解できます。

ルール5:神秘性
おまじないとかしきたりとかも含め、非合理的な論理があると。例えば、「逮捕された」と聞くと、それだけでその人は悪い人だと思ってしまうのが世間だと。西洋的な社会なら裁判というシステムの結果から判断するのに、容疑者=犯罪者と思ってしまう世界。最近の東電OL殺人事件の「冤罪」裁判とかを見ると、その通りと思う。

この5つのルールがはっきりしている(固定的)のが世間ということだと。うむ、わかりました。
逆に社会は、互酬ではなく契約、長幼ではなく個人の平等、共通の時間ではなく個々の時間、差別的ではなく平等、神秘/儀式的ではなく合理/実質的となる。世間も社会も個人個人がつくるものだが、世間をつくる日本は個人がない(集団)、社会をつくる西洋は個人がある(非集団)ということだ。こう書くと西洋の方が偉い!という感じになるが、単に日本と西洋は違うということを鴻上さんは主張する(ここでは、当然、キリスト教=1神教の話が出てくる)。

「世間」と「空気」、、その違いと日本の変化

じゃあ空気とは何か?
ここが鴻上さんの、ある種オリジナルなところで、空気の大家である山本七平氏の論調を踏まえ、世間がカジュアル化したもの/流動化したものと定義している。つまり、空気とは、当然その場の雰囲気のことだけど、世間が持つ5つのルールのどれかが欠けている状況だと。まあ、世間と空気は似てて、社会とは違うという考え。

例えば、小泉チルドレンの会合の空気。同じ目的を持っているから、差別的になる(ルール4)。何かやってやろうというスピリチュアル/神秘がある(ルール5)。当然、今後も一緒にやっていこうという共通の時間意識もある(ルール3)。
ただ、互酬関係(ルール1)や長幼の序という力関係(ルール2)は、はっきりしない。そうすると、誰がお金持ちで贈与のキックをするか(ルール1)とか、誰がカリスマ性とか力があって仕切るか(ルール2)と、空気読み合戦が始まると。

この例は非常に分かりやすい。ただ、山本氏が出す「太平洋戦争はすべての人が負けると思っていたのに、その場の空気には逆らえず戦争を始めた」ということと、最近の合コンで「空気読め」ということはかなりGAPがあり、その辺を繋げる例示は、少し分かりにくい。

じゃあ、今なぜ空気で、世間ではないのか?
これは、日本の世間が徐々に壊れ、変わって空気が穴埋めしていると読めるような指摘がある。確かに、年功序列が壊れつつある会社という世間、都市化が進んだ郊外とか地域共同体という世間の壊れがあり、その代わりに空気の時代になったと。
そして世間がそうであったように、空気も重たく、息苦しい存在になっている現状を、おもしろいエピソードで語る。

確かに世間というか共同体が壊れつつあるというのは、宮台真司さんとかもよくいう話だし、それを西洋的な社会の考え方で埋められないなら、空気をその都度つくるしかないということになる。鴻上さんは、その都度空気をつくるのは不安定だから、それが現代の不安を生み出しているのではと指摘している。

「空気」と「社会」、、そしてSNS

じゃあ、常に空気をつくらないとまずいという息苦しい状況を解決する手段は何か?
ここが鴻上さんの大きなメッセージだけど、(日本的ではない)社会につながれと。この辺は、この本をじっくり読んでほしいところ。

西洋的な個人を確立せよ、そして西洋的な社会をつくれ! とかいう単純で無理筋の答えではないのは当然。複数の世間/空気を持つことが、日本的社会ではないかというメッセージもあるが、これは「いじめに苦しんでいる中学生にまで届いてほしい」という彼の優しさからきたものに思う。

社会で生きるために一番重要なこと。それは自分のやりたいことをやるという当たり前のことだ。そして、その上で他者と折り合いをつけるということ。その折り合いをつける時に、社会ルールを参照して、それがイマイチだと感じたら面倒かもしれないが声を上げるということ。
少なくとも他人を思いやるのが社会に生きる人間の務めとか言って、自分のやりたいことを二の次にしようという、本当にいまいちな「世間」に生きてる人は嫌だと。
その当たり前のことを確認させてくれる良い本だった。

まあ、blog初心者の僕としては、書きたいことを書くと(それが社会に伝わることを願うが)。同じくFacebook初心者の僕としては、読んでもわけわかんない公開フィードは書くなと(結構これが多くて、SNSはつらいものがあるが、、)。
そんなことを感じた本だった。